宮城県気仙沼市の震災遺構・伝承館は、2011年3月11日の東日本大震災の津波で全壊した、県立気仙沼向洋高校の校舎だ。津波は4階建ての最上階まで達した。流れ込んだ車がひっくり返る教室、砕け散ったコンクリートの外壁。「人は自然には勝てない」という事実を、改めて突きつけてくる。ここに今年4月、2代目の館長がやってきた。防災の専門家として、何十年もかけて、津波への「盾」を造ってきた元市職員だ。いま、彼は語る。あの日、自分が背負ってしまった「十字架」を。そして、教訓を。(敬称略)
震災の月命日の4月11日、震災遺構・伝承館。着任したばかりの2代目館長、佐藤健一(68)は開館と同時に、屋上に立った。空は晴れ、遠目に見える三陸の海は穏やかで青い。間もなく、下から見学者が上がってきた。
若い男女4人組だ。大阪市立大学の都市計画専攻の学生で、まちのデザインに防災の視点を採り入れようと、被災地を巡っているという。3・11の知識はほとんどない。
佐藤がとつとつと話し出した。津波がどうして起きるか、三陸地域が受けてきた被害の歴史、あの日までの備え、復興の歩みと課題、そして教訓。数字と事実で淡々と説明する。「南海トラフの巨大地震は、大阪も無縁ではありません」。学生がメモを取る。
佐藤が人さし指で、遠くに見える高台を指した。口調が重くなった。「あれが『杉ノ下の高台』です。明治の大津波(1896年)でも浸水しなかったので、市が避難場所に指定していました。でも今回、そこに避難していた住民約60人が犠牲に」
口ごもった。一瞬置いて顔を上げ、学生たちを見据えて言い切った。「指定したのは私でした。反省しています。明治を超える津波が来ると、予見できませんでした」「津波は『ここなら大丈夫』がない災害なんです。海沿いにいて大地が揺れたら、少しでも高く、少しでも遠くへ逃げてください」
佐藤の目は真っ赤に潤んでいた。学生たちはそれを正面から見つめ、佐藤に言った。「お会いできてよかった」
佐藤館長はなぜ、あの高台を避難場所に指定したのか。10年前のあの日、何が起きていたのか。記事の後半では、佐藤館長の悔恨と、遺族らの思いをつづります。
■約20年かけた津波対策、そ…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル